2015年8月2日 30歳になって「社会を意識して文章を書く」
ー感じたこと
1.「お経を読むことで善人でも救われるのであるから、況や悪人をや」といったパラドクス的な表現をする親鸞という仏僧を、素晴らしいと言ってのける文章に「これで大丈夫なの?」と感じた。
2.生々しい、人間の醜い欲望の、自己肯定の様な親鸞の教義の中で、善悪と運命について考えさせられた。
3.浄土真宗という宗教概説書としての、親鸞の「専修念仏による弥陀の本願」に対する信仰に、今までに見てきた何よりも「徹底した信仰」というものを感じた。
4.梅原猛のYoutube動画「9条への思い」に対する違和感
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1.親鸞が書いている「お経を読むことで善人でも救われるのだから、況や悪人をや」という表現や、観音菩薩が『お前には女体が無いために修行に集中できないのならば妻帯を許す』と夢で言ったから妻帯者として仏僧であり続けたという事実はそんなことでよいのか、と感じた。
梅原猛はこれに対して、法然からの大きな流れとしての戒律の軽減化、内面化という流れと、当時の建前だけの崩壊した秩序を背景に理解を示しているがそんな人類に対する諦念感には、30歳を迎えた自分への評価としての「薄っぺらさ」、「身も蓋の無さ」を感じて嫌悪感を感じた。
2.歎異抄第13条の「千人を殺せ」のエピソードを読んで、善悪というものはその人の罪ではなく、前世から来る運命というものに起因しており、往生の妨げになるものではない、という善悪観に新鮮味を感じた。
私も常々偉業を為したいとその道筋を模索し続けているが、ただただ薄っぺらい自分を見つけるばかりの日々である。
それさえも肯定されるような考え方に確かに救われたような気持ちになったが、原田先生、永守社長に見るような理想像に対してただの言い訳にしか感じられないというのも正直な思いだった。
30歳になって、「薄っぺらい自分を認めることから始めよう」とFacebookに書いた。汚い人間ということを認めてから目指せる偉人像というのはどういうものだろう。
何をやりたいのか、まだわからない。
3.「徹底した信仰」
「専修念仏による弥陀の本願」を信じることでより理想的な修行のあり方さえも不要とバッサリ切る。
「何かを信じる」ことは何かを否定すること、なのかな。
俺は「モノ作りする人の、人を思いやる心の醸成」を信じた。
正確に言うと、仮説として一度信じたことにした。
今は特に新しい信仰を持ってはいない。
信用される人間になること、をただただ目指したい。
それは人の信用を信じ、信用から生まれる己の幸運、幸せな人生というものを欲しているのだろう。
4.は省略。